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『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』
ローマの信徒への手紙8章26節 ------------------------- 前回、祈りは神様との交わりであり、対話であると書きました。このことから私たちはどう祈るべきかと言うことが教えられるのです。対話というのは本来自由なものです。つまり、その祈る内容も全くの自由なのです。でも、祈りなさいと言われると、私たちの祈りは願いや求めが中心になってしまいます。それが悪いわけではありません。ですが、例えば子供が親に電話をして、「もしもし、俺、金がなくなったから送って、じゃ(ガチャッ)」・・・これが会話か、と言われれば、やはりおかしいと思いませんか。 「何をどう祈ったらいいか分からないのです」というのはよくある質問です。まずどうしたらいいかを書きたいと思います。 私たちはその祈れない姿のまま、神様の前に立てばよいのです。祈れないなら「神様祈れません」、何を祈ればいいか分からないなら「何を祈ればいいか分かりません」と、祈れない自分自身を委ね、祈れるようになるのを待てばよいのです。神様の前に、祈れない自分をさらけ出し、祈れるように待つ、それもまた祈りとなるのです。 神様はその時、私たちに聖霊を送って下さり、その祈りをも聞いて下さいます。そして祈るべき事を教えて下さいます。まず神様の御前に立って、自分自身を神様に委ねて下さい。 では何を祈ればよいのでしょうか。それは次回にお話したいと思います。 #
by 1maru
| 2004-09-13 00:28
| ショートメッセージ
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。』
テサロニケの信徒への手紙一 5章16節 ------------------------ キリスト教にとって「祈り」は欠かすことの出来ないものです。なぜ「祈り」がそんなにも大事なのでしょうか。それは神様が私たちに「祈り」をすることを求めておられるからです。クリスチャンが祈るのは、神様が、イエス・キリストが、つまり私たちの信じている方が私たちに祈る事を求めておられるからです。 では、そもそも「祈り」とは何でしょうか。国語辞典には「祈る」とは「神や仏の名を呼び、幸いを請い願う。心から望む。希望する。念ずる。」とありました。これが一般的な祈りの概念だと思います。ですが、これはキリスト教の祈りではありません。お祈りをする時、願い事ばかりを口にしてしまうかもしれませんが、願うことが祈りではないのです。 祈りとは神様との会話であり、交わりなのです。祈りを言葉に出す、出さないはあまり関係ありません。神様に語りかけ、神様の御旨を聴き、神様を感じる、これが祈りなのです。ただ「神様」と呼びかけるだけでよいのです。 神様は常にあなたを見守っていておられます。そしてあなたが「神様」と呼びかけるなら、いつでもその呼びかけに耳を傾けてくださいます。 #
by 1maru
| 2004-09-06 00:26
| ショートメッセージ
『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。』
ヨハネによる福音書15章4、5節 ---------------------------- 私たちは何か困難な場所に自分が置かれた時、神様の助けを求め、一時的でかまわないから神様に一緒にいていただきたい、神様とつながっていたい、と思います。ですが、苦しい状況にいなければ、すすんで神様につながっていようとは思いません。こう考えると、私たちは神様を軽く扱っているのかもしれませんね。 神様を信じていない人でも、日本のことわざ「苦しい時の神頼み」というのは、こんな考え方は神様に対して失礼だし、そんなに都合良く神様が願いを聞いてくれるわけがない、と思うようです。 では神様は私たちをどう見ておられると思いますか。神様はそんな私たちであっても深く愛してくださっているのです。私たちが神様につながろうとしない時であっても、私たちに向かって手を差し伸べていてくださり、つながろうとしてくださっているのです。 この神様が差し伸べておられる手のことを私たちは気付かず、無駄にしてはいないでしょうか。この神様の手を握り返してください。その時本当に大きな力が与えられます。 #
by 1maru
| 2004-08-30 00:26
| ショートメッセージ
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』
ヨハネによる福音書3章16節 ------------------------ 善人が幸せになり、悪人が不幸になる。「勧善懲悪」は時代劇ではよくあるパターンですよね。ですが実際のこの世の中では、むしろ、悪人に見える人が幸せになり、善人が不幸になる言った事も多いような気がします。何か、矛盾を感じていらだってしまう時があります。 ですが、もっと大きな矛盾をイエス様は自らかって出てくださったのです。イエス・キリストは神の独り子でした。罪を犯したことのない方でした。その方が十字架に架かって死んでくださったのです。その死は私たちの罪を贖うためであります。私たちが永遠の命を得るためなのです。 #
by 1maru
| 2004-08-23 00:25
| ショートメッセージ
『なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。』
詩篇42篇6節 -------------------- 毎日が忙しない(せわしない)、そう感じておられる方は多くいるのではないかと思います。あれをしなければならない、これをしたい、そう言うことに追われるとなんだか自分の時間がないように感じてしまうものです。 確かに今の世の中は本当に時間の流れの速い、急いだ世界です。しかも自分から色々と動くことを求められています。のんびりしている暇がない、その気持ちも分かります。 聖書は私たちに『神を待ち望め』と勧めています。それは神様こそが私たちの力の源だからです。自分の力だけで全てをしようとする時、私たちは力の源から離れているのですから、自分の魂が『うなだれ』『呻く』のを感じることになるのです。 何かをしなければならない時、ふと立ち止まって神様を待ち望んでみて下さい。その時大きな力を必ず与えられます。 #
by 1maru
| 2004-08-16 00:25
| ショートメッセージ
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